赦されているという事実に頼って生きる | Joseph Prince | New Creation TV 日本語

赦されているという事実に頼って生きる | Joseph Prince | New Creation TV 日本語



赦されているという事実に頼って生きる | Joseph Prince | New Creation TV 日本語

「世界には何の問題もなかった」 「そんな時に
神はイエスを世界に遣わした」 「そして神が
イエスを遣わしちゃったから」 「世界は選択を余儀なくされた」 実際はそうではありません その時
世界は下降線をたどっていました そしてサタンにとっては
そんなの望むところです 暗闇の力は究極的な憎しみで
人を憎んでいます それは人が神に似せて造られた存在
だからです 人は神の創造物の中で
最も尊い存在です 神はご自分に似せてあなたを造り あなたに自由意志を与えました そして目の前に選択肢がなければ
自由意志は発揮されません 私は最近ある専門家の人と
このトピックについて話していました その時私はこう言いました 「もし神が
自由意志を持つ人を」 「良いものしか選べない場所に
はじめから置いたとしたら」 「そこに本当の自由意志がある
とは言えるのでしょうか」 「うん、わたしは
君に自由意志を与えたよ」 「でも君の周りにあるのは
どれも完璧で良いものだけだ」 「君はAを選ぶことができるけど
それは良いものだ」 「Zを選ぶこともできて
それも良いものだ」 これだと自由意志が本当に発揮されているとは
言い難いですね アーメン 神が求めていたのは ロボットではありませんでした 神は自由意志を持つ人を
求めているのです でもそこにリスクがあります アーメン その自由意志のために
ある一つの木が エデンの園に置かれる必要がありました その木をそこに置いたのはサタンではなく
神です そしてその木とは
善悪の知識の木です 神は人にこう言ったのだと思います 「君の中には
まだ開かれていない部分がある」 「わたしは
君を完全な者として造った」 「そしてわたしは
あなたを霊なる者として造った」 「でも君のその霊なるものの部分は
まだ見ることができない」 「そしてわたしは
その君に選択肢を与えている」 「いのちの木の実を通して
見えるようになるのか」 ちなみにこのいのちの木とは
キリストを象徴しています 「または善悪の知識の木の実を通して
見えるようになるのか」 人はこの後者を選びました もちろんそれを促したのは
サタンでしたが 人は善悪の知識の木から食べることを
選んだのです その時のことを
注意深く読んでみると そこには”こうして、ふたりの目は開かれ”
と書かれています これが身体的な目のことではないのは
明らかです この時までに彼らの身体的な目は
すでに開かれていました でも霊的な目が開かれたのは
この瞬間だったのです 彼らは自分たちの霊的な目を
善悪の知識の木を通して開くことを選んだのです それは善悪の知識
つまり道徳によって 自分たちは神との関係を築き上げていく
という選択でもありました 私はこの瞬間に
人の中に良心が生まれたと考えています 人が選んだのは良心だったのです 神はいのちの木を通して
人に 「内側の最も深いところから神に導かれる」
という選択肢も提供していました でも人が選んだもう一つの選択肢は
神に頼らず 自分の善悪の知識によって 何が正しいのかを判断していく
という道だったのです それは今日の世の中にも
はっきりと現れていますね 誰もがそれぞれ何が良いことで
何が悪いことであるかの 異なった意見を持っていて その意見の相違によって 世の中は分断しています しかし神が求めていたのは 人がその点について神に頼ることでした 神は「子どものように
わたしのもとに来なさい」と 私たちに語りかけています 自分では良いと思っていることが 本当は良くなかった
ということもありますね あなたが親だったら 何が良くて何が悪いかについて 自分の子どもに
信頼してもらいたいですよね 彼らが迷ったら
あなたにそれを聞いてきてもらいたいですよね アーメン それは当たり前です でも人は
父なる神に頼らない道を選びました 「なんで神は
人がその選択をするのを止めなかったんだ」 と言う人たちがいますが それをしたら神は不公正だ
ということになってしまいます わかりますか? もし神が自分の権力を行使して 善悪の知識の木に
手を伸ばしている人の手を止めて こんな風に
その手をコントロールし その手を
自分のほっぺたに向けさせ すごい勢いで自分のほっぺたを バチンバチンと叩かせたら
どうですか? それでは権力の乱用ですね 神は自由意志を与えておきながら その自由意志を支配する
などということはしません その支配が解けて
川に映る自分の顔を見てみたら 自分で自分のほっぺたを
50回も叩いた後で真っ赤っかになってた そして後ろを振り向くと 神がそっぽを向いている 神はそんな方ではありません 神は権力の乱用も支配もしないのです 人はしてしまうけど 神はそれをしません 神は自由意志を与えたならば
本当にそれを与えたのです しかし 神は私たちが選択したことの結果を
ねじ曲げるようなこともしません これを選ぶけど 結果はこっちにしろというのはまかり通らない
ということです 神は人が
善悪の知識の木から食べたら どんな結果になるのかを
あらかじめ人に伝えてありましたよね 神がその時言った言葉は
ヘブライ語では 「あなたはその木から食べるその日
死んでいる」 「あなたは死ぬことになる」
でした 人がその木から食べることを選ぶまでは
人に死はなかったのです 「死んでいるあなたは
死ぬことになる」 最初の「死んでいる」は
霊的に死ぬことであり 次の「死ぬことになる」は約900年後に訪れた
肉体の死のことでした 神の計算では
千年は一日のようであり一日は千年のようです だから神が「あなたがその木から食べるその日」
と言っていたのが 私たちが考える一日のことではなくて 約900年後の神のタイミングであったことにも
うなずけます 神にとっては
一日は千年のようであり 千年は一日のようであるからです 霊的な死と肉体的な死が
人にもたらされたのはこの時でした まず霊的な死で
その後で肉体的な死です ここまでよろしいですか? そしてその両方が
私たちの主イエス・キリストによって解決されたのです キリストはこの世に来て
私たちの罪のために十字架で死んでくれました その彼に賛美を捧げましょう レディース・アンド・ジェントルメン 兄弟姉妹の皆さん 神の家族の一員である皆さん 私たちは神の家に集うたびに 主イエス・キリストにある
知恵と知識を深める必要があります その知恵と知識はイエスからきます そしてその知恵は
あなたがどんな状況においても どっしりと構えていられるようにしてくれます アーメン 世の中には
どっしりと構えられるような土台がありません もしあなたが金融関係の仕事や投資や 何かしらの常に激しく変動を続けている
フィールドに深く携わっているならば このことを知っておかなければいけません あなたを満たすすべての源は
それではなく神です もしあなたが
それを源にしてしまうならば あなたの心は
激しく浮き沈みすることになります アブラハムも
そのようなフィールドに携わっていました ペリシテ人たちとでさえ
取引を交わしていたほどです 彼は周りの人たちと関わっていなかった
わけではありませんでした 彼の息子イサクも同様でした 実際イサクは井戸を掘りましたが そこにペリシテ人が来て
その井戸について議論を吹っかけて イチャモンをつけてきました するとイサクは
彼らにその井戸を渡して 他の井戸を掘ることにしました そしてイサクが他の井戸を掘ると 彼らがまたその新しく掘った井戸について
イチャモンをつけてきました するとイサクは
その井戸を「争い」という名で呼ぶことにして それを彼らに譲り また他の場所に
井戸を掘り上げました そしてその井戸については
誰もイチャモンをつけてきませんでした そこでイサクはその井戸を
レホボテ(十分なスペース)と名付けたのです このように私たちも神が全ての源である
と信頼しなければいけません 世の中の営みに
あなたの心を奪わせてはいけません 物質的なものやこの世的なものを
強く握りしめてしまってはいけません 大金を失ってどうしようもないほどに
落胆しきってしまうのは 心をお金に奪われて
しまっているからです 本当はそれは
そんなに大したことではありません お金を主人にしてしまうと
それはそれはひどい主人ですよ アーメン 私たちは
お金に支配されるのではなく お金を従わせなければいけません 心からのアーメンをいただけますか? あなたの心は
神に向いているべきです アーメン それが
あなたの人生のゴールです キリストを知り
その復活の力を知ること 今年のテーマは「三日目」ですね そして三日目とは復活の日です そしてこの三日目という言葉が 聖書で最初に言及されたのは 神が”「天の下の水は一つの所に集まれ
乾いた所が現れよ」”と命じた時でした これはつまり「乾いた所が
そこにすでにあった」ということです そしてどうやらノアの洪水とは違う洪水が
以前にあったようですね でなければ神が
「水の中から”乾いた所が現れよ”」と言うのは 辻褄が合いません それはともかく 乾いた所が現れた後で 神はその乾いた所に “種のできる草や種の入った実を結ぶ果樹”を
芽生えさせるようにと命じ 実り豊かさをもたらしました このように最初の三日目には
復活と 実り豊かさが
描かれていたのです これが聖書で最初に
三日目が言及された時のこととして 前回のメッセージで話したことです でもまだ話し切れていないというふうに
私の霊は感じています そして嬉しいことに
ローレンス牧師もそのメッセージの後で 復活のテーマに沿ったメッセージを
してくれました 私は自分たちには復活について
まだまだ知らないところが多くあり 神がもっともっとそれを
明かそうとしてくれているのを今感じています 私たちは自分で考えているほどに
復活を理解できてはいません でも使徒たちは
復活をとても重要視していました 彼らはそれを福音の土台として
捉えていました 復活なしでは
福音は骨抜きなのです 私たちは十字架が
人類の歴史上また神の歴史上 最も重要な出来事であることは
理解しています キリストは十字架に架かったその瞬間に
私たちの全ての罪を背負って死んでくれたからです 最近あなたは罪を犯しましたか? または自分の人間関係を悪化させるような過ちを
何かしてしまいましたか? つまり「ごめんなさい」と言わなければいけないような
何かをしてしまいましたか? でもそれを繰り返さないという自信が
ありますか? 心臓が止まるまでは私たちは必ず
何かしらの過ちを犯し続けるでしょう これは預言ではありませんよ 聖書に書かれている真理を
述べているだけです しかし皆さんは
自分がイエスを信じて受け入れた後では もう罪人になりはしないということを
知っていますか? 罪に陥ることはあっても
罪人になることはないのです あなたはイエスを信じて受け入れる前は
罪人でした だから当たり前のように
罪を犯していたのです 罪人であるのだから
それが普通です アーメン
でもその中で良いことをする時もありました でも今は
自分ではそうと気付きさえせずに 良いことを実践しています アーメン あなたはこの地上において生きる
神の義なのです そしてその中で
罪を犯してしまうことがあります でも神の義であることには
変わりありません それはあなたがキリストに出会う前
罪人であったのと同様です あなたはこの地上において
生きる罪人であったのです だから誰も
あなたに出くわしたくはなかった アーメン でもその中で
良いことをすることもあった 貧しい人のために寄付をしたり
です それは良いことですよね でもだからといって それによって
あなたが正しい人になったわけではない でも今「あなたはキリストにあって神の義である」
というアイデンティティを得ています いいですか? あなたはハエではありません ハエはゴミにたかりますよね あなたはもうハエではなくて
蝶々なのです そして蝶々は時には
汚いところに降り立ってしまう時もあります でもだからといって蝶々が ハエに生まれ変わる
などということはありませんね そんなのありえないです でも教会ではそのようなことが
メッセージで語られがちです 「罪を犯したら
あなたは罪人に逆戻りだ」 それは違います 「あなたはゴミに落ちてしまった蝶々だ」
です もう一度はっきりと言いますが
あなたはハエではありません ロバに群がるハエを見たことあるかい? 失礼しました シュレックの歌です パウロがイエス・キリストの復活を
どう捉えていたのかを 注意深く見てみると
あることがわかってきます 第1コリント15章17節の
パウロのこの言葉を見てください “そしてもしキリストが
よみがえらなかったとしたら” “あなたがたの信仰は空しく” “あなたがたは今もなお
自分の罪の中にいます” “もしキリストが
よみがえらなかったとしたら” “あなたがたの信仰は空しく” “あなたがたは今もなお
自分の罪の中にいます” 何を言いたいのかわかりますよね? 「でもプリンス牧師」 「キリストが私たちの罪のために
十字架上で死んだので十分なんじゃないの?」 その通り キリストは私たちの罪のために
十字架上で死に 私たちが受けるべきだった罰を
受けてくれました また全てを
そこで背負ってくれました そしてイエスが「完了した」と言ったとき
それはもう完了したのです これはつまりイエスが
私たちの全ての罪の責任を取ったということです そしてそれこそが
イエスが死ねた理由です これまではイエスにとって
死ぬのが不可能であったことをご存知ですか? いくら頑張っても
彼を殺すことは誰にもできませんでした 死がイエスを捉えることは
不可能だったのです 死が捉える権利を持っているのは
罪を犯す人たちだけだったからです アーメン 死はそのような制約を
神から受けていました 神は罪を犯したことがない者に
死が触れることを許しはしませんでした “罪の報酬は死です” だからイエスが私たちの罪を
十字架上でその身に負うまでは 言い換えるならば イエスが私たちの罪の責任を
その身に負うまでは 死がイエスを捉えることは
できなかったのです アーメン
あなたが誰かを傷つけてしまったその罪も もうあなたが思い出すのも
嫌であるほどのその罪も 全部イエスは
その身に負ってくれたのです するべきことをしなかった
という罪も背負ってくれました するべきことをしなかった罪とは 例えば、お父さんが生きている間
もっと優しくしてあげればよかった でも今となってはもう手遅れだ
といったようなもので それを思い出すたびに
自分を引っ叩きたくなるような罪です そのような罪も
イエスは十字架上で背負ってくれました だから自分でそれを背負っているかのように
悔やみ続けるのはもうやめましょう またあなたがそれによって
誰かを傷つけてしまったというような 悔やんでも悔やみきれないような罪も
彼は背負ってくれました 今は意図的に
このように細かい例を出しています キリストは私たちの罪のために死んだと
一括りにして言っても なかなか実感が湧かないことがあります でもそれが自分のどの罪のことを言っているのか
ということを解明していくと イエスが本当に私たちの全ての罪を背負ってくれた
ということが実感できます イエスは私たちの罪そのものを
背負ってくれたのです アーメン イエスは十字架上で
私たちの罪を背負い その責任を取ってくれました そうやってイエスは十字架上で 文字通りの旧約聖書に記されている
“罪のきよめのささげ物”となってくれたのです 罪のきよめのささげ物について
旧約聖書に書かれている全てのことは 十字架上のイエスを
指し示していたのです キリストは
世の罪を取り除く神の子羊として 究極の罪のきよめのささげ物となり 私たちの罪をその身に負いました でもイエスは私たちが犯した罪をその身に負っただけ
ではありませんでした 私たちの罪を生み出す工場である
私たちの罪の性質さえも その身に負ってくれたのです 私たちの中で罪を慕い
罪を犯し続けたがるその性質は 十字架上で
イエスによって背負われたのです 皆さん
聞いてくれていますか? ちゃんと聞いてくれていますか? そしてイエスが
罪のきよめのささげ物となって初めて イエスは死をも
その身に負うことができたのです イエスがその身を捧げるまでは 死が彼を捉えることは
不可能だったのです ハレルヤ でも罪のきよめのささげ物となったイエスに
必然的にくっついてきたのが死でした 罪の報酬は死だからです イエスはあなたにその報酬を
受け取ってもらいたくはなかったのです イエスがあなたの報酬を代わりに
受け取ったのです あなたの罪に対する報酬は
死です イエスはその報酬を
十字架上で受けてくれたのです そしてそれは肉体的な死だけではなく
霊的な死もです 彼は全ての死を
十字架上で背負ってくれました そして神が死ぬことは
ありえなかったので イエスは人となって
人として死んでくれたのです アーメン イエスは言うなれば
自分の「神となり」を捨て 人となってくれました 彼は自分のエッセンスである
神という性質を手放し 人として
この地上を歩んでくれたのです だからこそイエスは
聖霊によって油注がれる必要がありました “神はこのイエスに
聖霊と力によって油を注がれました” “イエスは巡り歩いて良いわざを行い
悪魔に虐げられている人たちを” “みな癒されました”と
聖書にあります イエスは
神として癒したのではなく 聖霊によって油注がれた「人」
として癒したのです 皆さん
聞いてくれていますか? そしてその人としてのイエスは
私たちの雛形なのです 神は私たち皆が
彼のようになることを望んでいます 人としてのイエスは
私たちの長男のお兄ちゃんであり 私たち皆が目指すべき存在なのです 神は人を
どのように見ていると思いますか? 神は人を
とても気高い者として見ています 神は人を見下してなどいません 神は人を気高き
王子・王女として見ています その上で真の謙遜とは
どのようなものであるべきでしょうか? それは媚びへつらうような姿
ではありません 腰が痛いかのように
いつもへこへこしていて へり下っているかのように繕うのは
真の謙遜ではありません 腰が本当に痛い人の話をしているの
ではありませんよ 私が言っているのは 謙虚なふりをして腰が痛いかのような姿勢を
とっている人たちのことです 私が若いクリスチャンで
他の教会に行っていた時のことです そこにゲストスピーカーが来ました 今からする話は そのゲストスピーカーが悪い人だ
という話ではありません でもそのゲストスピーカーを見て
私の友人はこう言いました 「あの人はなんて謙遜なんだ
あの歩き方を見てみろよ」 そしてその彼の歩き方とは
こんな感じでした こうやってステージに上がり
またステージから降りてきました そこで私は「ああ、謙遜な人だと思われるには
こういう風に歩くんだ」と思ったものです でもそのイメージだと
ダビデは謙遜の正反対ですね 彼はゴリヤテの前に立ち
こう言いました “「今日、主は
おまえを私の手に渡される」” “「私はおまえを殺して
お前の頭を胴体から離し」” “「ペリシテ人の軍勢の屍を
空の鳥、地の獣に与えてやる」” ダビデは
ゴリヤテがダビデにしようとしていたことを 逆に彼にやってやったのです “「ここに集まっているすべての者も
剣や槍がなくても」” “「主が救いをもたらすことを
知るだろう」” “「この戦いは主の戦いだ」” 「なんだ、この若造は
青臭いなぁ」 「何でも分かったような口を
叩きやがって」 「高慢だなぁ」 このシーンがライブ配信されていたら きっとそのようなコメントが
どんどん出てくることでしょう でも「なんて謙遜なんだ」と言う人は
いないでしょうね でもこれこそが本当の謙遜さです 謙遜さとは
神に頼ることだからです ダビデは
自分自身に頼ってはいませんでした 「今日、主は…主は…主は…」 「お前は主の名を冒涜した」 「お前は万軍の主の戦陣をそしった」 このようにダビデが気にかけていたのは
神の栄光だったのです 自分自身の栄光ではありません もしダビデが
自意識過剰だったならば ゴリヤテに立ち向かったりはせずに 他のイスラエルの兵と一緒に
ビクビクと隠れていたことでしょう 世の中の謙遜さのイメージは
歪んでいます でも私たちは神が人を次のように見ていることを知り
認めなければいけません 「君の体は聖霊の宮だよ」 「神の宮なんだよ」 神は人を
気高き者と見ています 神聖さをまとっている女性
というのは 偉そうにはしていないけど 否定しようのない
王女の風格を漂わせています それは次のようなものとは
違います 「私はお前のような低俗な者とは
違うのだよ」 「私はお前より神聖だし
お前より義なんだ」 これはパリサイ人チックな
神が嫌うプライドです ここで言っている王子・王女の風格とは 跪いて
人々の足を洗いながらでも Tシャツを着て
サンダルを履きながらでも 失われることのない威厳のことです 「この人は何か王子っぽいぞ」 「何か王女っぽいぞ」と思わせる
何かのことです それは天から注がれている
王族としての気高さです アーメン 神は私たち皆に
そうあってほしいと願っています 神は私たちを神に向かう 王
そして祭司としたのです イエスを考えてみてください イエスは
この謙遜さの最大の模範です 次のことわざを知っていますか? 「付き人の目に英雄なし」 付き人というと専属ドライバーのような者を
イメージするかもしれませんが 当時では付き人とは
主人の鎧や武器を持って 主人にいつも付き従っている者
のことでした 付き人は
主人のしもべではあったけれど 主人の一番近いところにいる特権に
預かっていました 付き人は主人の武器が
よく手入れされていることを確認し 騎馬が健康で準備万端であることも
確認し 主人の食事の調達もし、と 主人の身の回りの世話すべてを
担っていました だけどそのように
付き人は主人にいつも付き従っているので 主人のすべてを見ることになります このような状況について
箴言には次のようなアドバイスが書かれています “隣人の家にあまり足を運ぶな” “その人がうんざりして
あなたを憎まないように” 箴言に記されている
この神の知恵は 言い換えるならば
次のように私たちに語りかけています 「いつもいつも
隣人のところに顔を出してはいけない」 「それをすると
その人はあなたにうんざりして」 「あなたを
憎むようになってしまうから」 女性の皆さん
あなたが狙っている男性に 電話をかけすぎてはいけません アーメン そしてたまに
彼が電話をかけてきたら 少し冷たく
あしらってやるのです その狙っている男性と
時間を過ごした後 すぐに電話をかけてはいけません 2、3日は待ちましょう いや3日にしましょう 今年は3日にしましょう アーメン このように聖書つまり神の言葉には
知恵が詰まっています アーメン そこには今の世の中が必要としている知恵が
詰まっています この”隣人の家にあまり足を運ぶな”も
その一つですね 「また来ちゃった」と
よくやっている人は 気を付けてください とにかく神の言葉には
知恵がぎっしり詰まっています それでは イエスが十字架上で
私たちのすべての罪を 背負ってくれたという話に
戻ります イエスという
この全く罪を犯さなかった人が 私たちの全ての罪を背負ったのです イエスは心に罪深い思いを
抱いたこともありませんでした 愛の男であるヨハネは “この方のうちに罪はありません”
と述べています ヨハネは
愛の男ということだけあって いつも内側のことに
目を向けていたのですね 一方、ペテロは行動の男であり 何かしらの行動を起こしてから
考える人でした その行動の男であるペテロは
こう言いました “キリストは
罪を犯したことがなく” 一方
パウロは知性の男でした 誰もがパウロの豊かな知性を認めています そのパウロは
イエスを”罪を知らない方”と呼びました 罪を知らず
罪を犯さず、内側にも罪がなかった その方が十字架上で
罪となってくれたのです その完璧に聖なる方であるイエスが 私たちの罪をその身に負うことの痛みを
想像してみてください その痛みゆえにイエスは
ゲッセマネの園で血の汗を流したのです 私たちの罪を
その身に負うことによって どれだけの衝撃が
彼の全身に走ったことでしょう 罪と全く関わりがなく
罪を憎むイエスが罪となる その事実を受け止め
考えるだけでも イエスにとってそれは
血の汗を流すほどのストレスだったのです だとしたら十字架上で
本当に罪となった時の痛みは どれほどのものだったことでしょう 神の御子が
十字架上の6時間で通ったその痛みと苦しみを 私たちが理解しきることは
決してできません そしてその終わりに
イエスは”「完了した」”と叫びました ではどのように完了したと
わかるのでしょう イエスが「完了した」と叫んだからです そしてイエスが死んだ後で
彼らはイエスの体を取り下ろしました ちなみに
ここでも言っておきますが イエスは自分で死ぬと選ぶまでは
死にませんでした イエスが王であることを宣言している福音書である
マタイの福音書には イエスは”霊を渡された”と
書かれています ここで用いられているギリシャ語は 「霊を解散させた」
というような表現です それは王が国民を解散させるときに
使うような言葉です 「将軍に敬礼、行け」 「将軍に敬礼、行け」 「そして命じた通りにせよ」 そうやって
国民は解散させられますね イエスはそのように
自分の霊を十字架上で去らせたのです 最高です これこそイエスの権威です これこそイエスの権威なんです アーメン そしてイエスはその権威を持って
自分を死に従わせ実際に死にました そしてその死んだイエスは
十字架から取り下ろされて墓に納められました ではこの時点で
私たちの罪は赦されているのでしょうか? ここにはこうあります “もしキリストが
よみがえらなかったとしたら” “あなたがたの信仰は空しく” “あなたがたは
今もなお自分の罪の中にいます” だからイエスが死んだままで
終わっていたら 私たちは未だに罪の中にいる
ということです イエスが「完了した」と叫んだ時 神殿の幕が
上から下に真っ二つに裂けました 上から下にです 下から上にではありません これは「上にいる存在がその幕を破った」
ということを物語っています そしてそれによって
最も聖なる方への道が開かれたのです アーメン それが成されたのはイエスの復活によってではなく
イエスの死によってです でもその死んだイエスは
墓に納められましたよね 今少し考えてみてください イエスは
どこから生まれてきましたか? 処女の胎からですね そして誰も入ったことのなかった墓に納められて
そこから出てきました 生まれるとき処女の胎から出てきて 死んだら誰も入れられたことのない
処女の墓に入れられ 復活して
そこから出てきた 実はこれは私が英語で womb(胎)とtomb(墓)を言い間違えたことの
こじつけでした でもそこにさえも
真理が秘められてたでしょ? それはともかく
“キリストがよみがえらなかったとしたら” “あなたがたは
今もなお自分の罪の中にいます” とはどういうことでしょう? イエスが墓に納められて
三日目に何も起こらなかったとします 何もです ユダヤ人にとって
一年のうちで最も神聖な日は Yom Kippur
つまり「贖いの日」です そのYom Kippur (贖いの日)とは
祭司が罪の贖いをなす日です Yomが「日」で Kippurが「贖い」で
二つ合わせて「贖いの日」です その日
大祭司は雄牛の血を携えて 至聖所に入り
契約の箱の上に載せられている 宥めの蓋の前に
その血を七度振りまきます この七回という数字は
「神の前で全き者とされること」を意味しています そして雄牛の血と雄やぎの血が指し示しているのは
キリストの血です 心からのアーメンをいただけますか? でもその後で
何が起こるでしょうか? イスラエルの民は中で何が起こっているのか
分かりませんよね では彼らはどうやって
神が彼らの生贄を受け入れ 彼らの罪を赦したことを
知ることができるでしょう 大祭司の手が
雄やぎの頭に置かれて イスラエルのすべての罪が告白される
という儀式は 外でイスラエルの民
皆の目の前で行われました もう一つの
罪のきよめのささげ物である雄牛も 外でイスラエルの民
皆の目の前でほふられました そしてそこで告白される罪を
聖書は次のように言及しています “イスラエルの子らのすべての咎と
すべての背き” “すなわちすべての罪…” つまりあらゆる種類の罪が
その罪のきよめのささげ物に負わされて そのささげ物はほふられたのです そこに含まれていない罪は
何もありませんでした これは外で
彼らの目の前で行われました イエスの十字架が
人々の前で公になされたのと同様にです そしてそのほふられた雄牛の血を携えて
大祭司は至聖所に入っていきます その瞬間から大祭司を見ている人は
誰もいません では神がその血によるささげ物を受け入れたと
どのようにしたらわかるのでしょう? 大祭司がどうした時ですか? 至聖所から出てきたらです 大祭司が無事に出てくることが
そのささげ物が受け入れられた印でした バプテスマのヨハネの父となるザカリヤが
至聖所に入った時は 彼はそこから長い間
出てきませんでした でも彼が出てきて
やっと人々はこう歓喜しました 「ハレルヤ
我々の罪は赦されたんだ」 「これからの1年も豊作を期待できるぞ」 「これからの1年も我々の子どもたちを
良い学校に送れるぞ」 この最後のやつは冗談で
現代バージョンです 「これからの1年も
健康と神からの祝福を期待できるぞ」 「これからの1年は
平安に満ちたものになるぞ」 「我々は神の民として受け入れられ
認められているから」 「敵が我々の領地を奪うことはないぞ」 イエスが十字架に架かるまでは
赦しとは 一年ごとに
更新されていくものだったのです これが贖いというもので
それは罪を覆います でもそれは
罪を消し去りはしないのです 例えば
このジャケットの下のシャツに インクのシミがあったとしても 私はそれを贖うことはできます それによって
あなたがそのシミを見ることはありません そのように贖いには
神が罪を見ないようにする働きがあります でも罪はそこに残っています しかしイエスの血は
シミ自体を取り除いてくれるのです だから今
私たちの罪はもう消し去られています 私たちの罪は覆われているのではなく
消し去られたのです よろしいですか? アーメン 雄牛や雄やぎの血に
罪を消し去ることはできませんでした イエスの血とは違うからです ただそれは私たちの理解を助けるための
象徴的な儀式だったのです ここまでよろしいでしょうか? 大祭司が至聖所から出てくる瞬間は
イエスの復活を象徴しています そして大祭司が至聖所から無事に出てくる
ということは 神が生贄を受け入れ
人々の罪を赦したことを意味していました イエスの復活も
それを物語っていたのです 心からのアーメンをいただけますか? イエスを信じて受け入れた
ユダヤ人の人たちが イエスが父の右の座に座っている
という事実を どのように捉えているか
知っていますか? イエスを信じて受け入れた
ユダヤ人たちのことを 英語では
「メシアニックジュー」と呼びますが アジアでは
その呼び方は浸透していないので ここではただ
「イエスを信じて受け入れたユダヤ人」と呼びます そのイエスを信じて受け入れたユダヤ人は
あることを理解しています ヘブル人への手紙には
そのユダヤ的な理解が詰まっています 彼らは「イエスが父の右の座に座った」
ということは 「イエスが大祭司として至聖所に入ったのだ」
ということを理解しています 私たちの罪を背負って
十字架に架けられたイエスは 死んで墓に納められました そしてそのイエスは何の問題もなく
至聖所に入ることができます 人としてですよ これが重要です だけど
栄光を受けた人としてです イエスは
何の劣等感も感じずに 何の躊躇もなく 至聖所に入ることができました そしてイエスは至聖所に入り
座りました 神が「わたしの右の座に座りなさい」
と命じたからです 神は彼が成したことを心から喜び
彼に「座りなさい」と命じました もし私たち誰かの罪の一かけらでも
イエスが背負い逃して その罪が
赦されていなかったとしたら 大祭司であるイエスは
決して座ることはできなかったのです だからヘブル人の手紙1章には
こうあります “御子は罪のきよめを成し遂げ” “いと高き所で
大いなる方の右の座に着かれました” “御子は罪のきよめを成し遂げ” “いと高き所で
大いなる方の右の座に着かれました” “御子は罪のきよめを成し遂げ” “御子は罪のきよめを成し遂げ” “いと高き所で
大いなる方の右の座に着かれました” イエスは “メルキゼレクの例に倣い
とこしえに祭司である” よく聞いてください これは最高ですよ “御子は神の栄光の輝き” これを表しているのは
契約の箱の黄金の縁と側面です それは御子が神の栄光の輝きであることを
表しています “また御子は
神の本質の完全な表れであり” これを表しているのが
黄金に覆われた木製の内側です それは
イエスが人であることも表しています イエスは完全に人であり
完全に神です そしてこのヘブル1章3節は “御子が神の栄光の輝き”であり “神の本質の完全な現れ”である
ということを述べてから “御子は…
その力あるみことばによって” “万物を保っておられます”
と述べています 宥めの蓋の周りは
王冠のようになっています つまり御子は王として
その力ある王の言葉によって 万物を保っている
ということです このようにヘブル人への手紙に
書かれていることは 旧約の幕屋についてを理解して
初めて見えてきます そしてこの後で
先ほどの言葉が登場します “御子は罪のきよめを成し遂げ” “いと高き所で
大いなる方の右の座に着かれました” これが意味しているのは もし一つでも
赦されていない罪があったならば イエスは座れはしなかった
ということです 「でもプリンス牧師
彼はイエスだよ」 確かにその通り 彼はイエスであり
父との特別な関係があります それはいつも変わらずそうでした イエスが
人として地上に来る前から イエスには
神との特別な関係がありました でもこの時イエスは
父の右の座に「人」として座ったのです イエスはもちろん永遠に
神であり続けます でも人として天に戻ったのです わかりますか? そして神は人としてのイエスを 彼に続く全ての人たちの雛形として
扱ったのです それは聖書に イエスが私たちの”救いの創始者”である
と書かれている通りです そして神は今日
イエスを あなたとして見ているのです 皆さんどうか聞いてください 教会は その歴史上一貫して
自分たちの罪が完全に取り除かれたということを なかなか信じようとしません 先週ローレンス牧師が心を注ぎ出して
メッセージを語ってくれました 彼はもう
自分をむき出しにしていましたね 私たち皆に
自分をさらけ出してくれていました そしてそれは
本当に素晴らしいメッセージでした アーメン そして私たちはそこで語られた 「自分の罪が完全に取り除かれたのだ」
ということを喜びますが その真理は
なかなか私たちの心に根を張りません 私たちの罪は
完全に取り除かれたのです イエスは死から復活した時 私たちの罪を
もうその身に負ってはいませんでした 数日前、十字架上では
その身に負っていたのにです でもイエスが私たちの罪なしで死から復活した
ということは あなたも、あなたも、あなたも、あなたも
あなたも、あなたも、あなたも あなたも、あなたも受け入れられた
ということです アーメン だってイエスがその身に負ったのは
あなたの罪だったんだから 私の罪だったんだから でもイエスが罪なしで復活したとは その罪すべてが取り除かれた
ということです だからヘブル人への手紙には
こうも書かれています “今キリストはただ一度だけ
世々の終わりに” これは原語を文字通り訳すと 「一つの時代の終わりに」 “ご自分をいけにえとして罪を取り除くために
現れてくださいました” 質問です イエスが罪を取り除いたならば
それは取り除かれたのでしょうか? もし廃棄されることはありえない聖書が “キリストはただ一度だけ” 「一つの時代の終わりに」 つまり
律法の時代の終わりに “ご自分をいけにえとして罪を取り除くために
現れてくださいました” と述べているならば なぜ私たちは
自分たちの罪は取り除かれていないなどと 言ってしまえるのでしょうか? イエスは
何のために現れたとありますか? “ご自分をいけにえとして
罪を取り除くために”です では罪は
取り除かれたのでしょうか? 「はい、でも…」「はい、でも…」
「はい、でも…」 あなたは羊であって
ヤギではないでしょう ヤギの鳴き声は
英語で「バーット(でも)…」だけど 羊は「バーット…」とは
鳴きません 信じましょうよ 私たちが「私にはまだ罪がある」
と言うたびに 私たちは「イエスが
十字架で自分の罪を背負わなかった」 と言っていることになるのです イエスが十字架でその罪を取り除いたことを
信じていないことになるのです 私はそれが人々の健康が崩壊し また人々の精神が崩壊する原因だと思います イエスは私たちがいるところに来るために
降りてきてくれました イエスのすべての行動に
象徴が込められています イエスがある家にいたとき そこには群衆がぎっしり詰まって
集まっていました そしてそこにはもう
誰も入る余地はありませんでした でもある人たちが
寝たきりの友人を イエスのもとに
連れて行きたかったのです でもイエスがいる中に入っていけるスペースは
全くありませんでした だから彼らは屋根の上に上がり 藁でできたその屋根に
穴を開けて その寝たきりの友人を
イエスの元に吊り下げました その寝たきりの友人が吊り下げられる
30年ほど前に もっと遥かに高いところから もっと遥かに低いところへと
降りてきた存在がいました それは一番高いところから一番低いところに
ということができるでしょう そしてその存在は
自分のところに吊り下げられてきた 寝たきりの男を見ました 私たちが病院で
寝たきりの人を見ても この時イエスが考えたようなことを
普通なら考えたりはしません イエスは寝たきりのその彼を見て
こう言いました 「子よ」 そう言われてイエスの方を見た
痩せ細って弱々しい彼に イエスは
さらにこう言いました “「あなたの罪は赦された」” “「あなたの罪は赦された」” そしてイエスは立ち上がって
こう言いました “「起きて寝床を担ぎ
家に帰りなさい」” 私たちは
次のようにやってしまいます 「おい、クリスチャンのように
歩めよ」 「しっかり歩け
霊によって歩くんだよ」 「神と共に歩みなさいよ」 「若者たち
神と共に歩みなさい」 でもイエスは最初に
“「あなたの罪は赦された」”と言いました だから私はそのイエスのメッセージを語る
ミニストリーをしたいのです これは前にも話したことがある
例えですが ATMに行ってお金を下ろした
とします そしてお金を下ろすと残高が表示される その残高を見て
嬉しくなる人はいますか? それとも悲しくなる人はいますか? または残高を見ることはない
という人はいますか? 普通はお金を下ろしたら
残っている額を確認しますよね でもこの時は残高を確認したら 「あれ?」 「あれれ?おかしいぞ?」 「どうしてだ?」 「何が起こっているんだ?」 その口座に残っているの
8万円だけであるはずなのに 表示された残高を見てみると 1000万円と
印字されている あまりにも信じられないので 口座名義を確認してしまう 壊れているんじゃないかと
ATMを叩きたくもなる でも防犯カメラがあるから
それはしない とにかく何が起こっているのか
検討もつかない 嬉しいんだけど
手放しで喜ぶことはできない 混乱してしまっているから ちゃんと
一緒に想像してくださいよ あなたは「これは一体全体何なんだ」
と混乱している そしてもう一度その額を見る 「1」
そこは見間違いませんね でもお年を召された
諸先輩方にとっては 0がぼやけて
見えてしまったりもします そして0の数を
数え間違えているかもしれない または本当は全部0なのに 端の0をただ1に
見間違えているだけかもしれない あなたにも
このジレンマがわかりますか? あーわからないんですね いつか年を増す中で なぜか
自分の手が伸びていきますからね 本はこのように読むのではなく このように読むようになります そして一番愉快なのは
次のような人たちです 「いや見えるわい、見えるわい」 「これが見えますか」と聞くと それをもっと遠くにやるから 「いや、代わりに読んであげようか」
と言うと 「いやいや、見えるわい見えるわい」
ともっと遠くに離しながら言う 大丈夫です 老眼はほとんどの人にとっての
年を取ることの一部です だから聖書に書かれているように モーセが120歳で死んだ時に その目が霞んでいなかったというのは
奇跡です でも聖霊はなぜわざわざ
それを私たちに伝えたのでしょう 老眼で目が霞んでいる私たちが
そんなことを聞いても 自分はモーセとは違うと
がっかりしてしまうだけですね でも聖霊がその記録を聖書に残させたのには
ちゃんと理由があります それはそれがあなたにも可能であることを
伝えるためです それは可能なんです でなかったら
わざわざそんなこと伝えません 「モーセはこうだったんだぜ
でも君たちには無理だ、ははは」 「パチパチパチパチパチ
かわいそうでしたね」 神はこんなことしませんよ アーメン あなたが信じるように
と伝えたんです 「私は信じないね」 「老いは自然の節理なんだから
そんなのアホらしいわ」 ええ、どうぞ
信じた通りになるんです “「あなたがたの信仰のとおりになれ」” だけどローレンスのような信仰を持つ人を
止めないで モーセのように 元気に年を重ねていくことを
信じている人を 邪魔しないでください 彼らの信仰のとおりになれ “「あなたがたの信仰のとおりになれ」” イエスは自分を指して 「わたしの信仰のとおりになれ」
とは言いませんでした “「あなたがたの信仰のとおりになれ」”
と言いました アーメン この寝たきりの人は
立ち上がって歩くことができませんでした この人は霊によって神と共になかなか歩めない
クリスチャンを象徴しています そして彼は”「あなたの罪は赦された」”
と言われて 歩けるようになりました でもあなたはそれを
心から信じる必要があります 「自分の罪は赦された」と
心から信じる必要があります 皆さん聞いてくれていますか? 今このメッセージを
締めくくっていきますが ここまで何か良いものを
受け取っていただけているでしょうか 今日のメッセージのポイントは 三日目が完全な赦しの日である
ということです でなければ
私たちはまだ罪の中にいます 私たちは
イエスが死から復活したことによって 死に打ち勝ったということは
理解しています でも神にとっては
それが最も重要なことではありませんでした 神にとって最も重要なのは 私たちの罪が全て取り除かれること
だったのです Yom Kippurには
ほふられて血を流す雄やぎの他に 人々の罪を背負い
それを荒野に持ち去る雄やぎが出てきます そしてその雄やぎはアザゼルと呼ばれ
荒野に追いやられて 二度と戻ってくることはありません それが象徴していることを
神は次のように言いました “東が西から
遠く離れているように” “主は私たちの背きの罪を
私たちから遠く離される” ここに”東が西から遠く離れているように”
とありますが 平面上では
東と西はどんどん離れていきますね それぞれその方向に進めば進むほど
どんどん離れていきます 神はそれほどまでに
私たちの罪を 私たちから
遠く離してくれたのです 神はこれほど強く 私たちの罪が取り除かれたことを
語っています だから私たちは自分たちが赦されたことに
依り頼んでいいのです 皆さんの中で
次のような経験がある人はいますか? 夜中に目が覚めてしまった時
意識がまだ朦朧としている中で 悪い思いを抱いてしまった人 手を挙げてくれてもいいですけど
挙げないでしょうね でもあげたかったらあげてもいいですよ 夜中に目が覚めて
意識が朦朧としている中で とても悪い思いを抱いてしまった
という経験がある人はいますか? 旦那さんや誰かについての恐ろしいほどの
悪い思いを抱いてしまった それは罪です でも意識が朦朧としていて
それに抗う強さもない そんな経験がある人いますか? その時どうしますか? 「いや、もう疲れてるから」 「明日起きたら告白しよう」 「でもそれで起きる前に
死んじゃったらどうなるのかな」 「赦されていない罪とともに
死んだことになるのかな」 そのような疑問に苛まれたことは
ありませんか? 私たちの罪が
赦されていないならば どんな罪も赦されてはいません でも赦されているならば
その罪も赦されています だから意識が朦朧とする中で
犯した罪も それがすでに赦されたことを思い出し
認め、また眠りましょう それがすでに赦されたことを信じ
また眠ればいいのです 悪魔にあなたの眠りを
台無しにさせないでください 悪魔があなたに罪深い夢を
見させることもあるでしょう 罪深い夢を見たことがない人は
今手を挙げてください アッシャーチームが
そのあなたをここから連れ出し 完璧という名の地に
連れて行ってくれます そこではヘンリー牧師が
あなたにメッセージを語ってくれるでしょう 誰もいないんですか? 今のは冗談ですが 悪魔が私たちに罪深い夢を見せる
ということはあり得ます あなたが眠っている間に 悪魔があなたに攻撃を仕掛ける
ということはあり得ます それが暗闇の力と呼ばれるものです でも罪深い夢を見たからといって それはあなたが罪を犯した
ということでありません 時にそれが警告として
用いられることもあります アーメン 神がそれが起こるのを許すのは その悪い夢によって
罪がもたらし得る結果の 警告を伝えるためであるという
ケースもあります とにかく自分の全ての罪は赦されている
と信じて眠っているべきですよ 実際よく考えてみると 人は自分が考えている以上に
罪を犯しています 自分の人生の全ての罪を告白しきった
という人はいますか? 罪を犯すたびに欠かさず
告白する 何かを少しでも
大げさに言ってしまったら それも告白する ヘンリー牧師に対して
何か悪い思いを抱いてしまったら すぐに告白する 何か悪い衝動が湧いてきたら
それもすぐに告白する 自分の罪を全て寸分違えずに
告白できる人などいません もし一つでも罪を告白しないことで 神との関係から出されることに
なるならば 全ての人が神との関係から
出されていることになります 「君は退場だよ、兄弟」 「イエスも退場したけど
君も退場だ」 「でもイエスが退場したのは墓で
君が退場するのは神との関係からだ」 そんなの違います 聖書は私たちが神の赦しに依り頼むべき
であることを語っています そして自分が神に赦されているという真理に
依り頼んでいる人たちには ある特徴があります 「私は赦されている
私は赦されている」と意識すればするほどに あなたの中で愛されているという感覚が
育っていきます そしてキリストが成してくれたことを
もっと実感できるようになります 怒って
誰かに当たり散らしてしまい すごい反省している そういう時もキリストにあっての赦しに
依り頼んでください それによって
何が起こると思いますか? あなたはまた
その人と関わり合う力を得ます でもそれだけではありません あなたは自分の過去・現在・将来
すべての罪が赦されたと知り、認めるとき その赦しを他の誰かに
提供することができるようになります これこそが
自分の敵を愛する方法です これこそが人々を赦す方法です でも悲しいことに
世界中の教会には 互いに赦し合えていない
という問題がたくさんあります アーメン 神が私たちの全ての罪を赦してくれた
ということを知りながら 何か赦せないことなど
あるでしょうか? それを知れば奥さんを赦せます 旦那さんを赦せます 子どもたちを赦せます もちろん子どもたちを正さなければいけない
ということはあるでしょう 彼らが神の栄光を輝かせる 道徳的な素晴らしさを備えた人に
成長するために 彼らを正すことはあるでしょう でもそれは
互いに赦し合っているという 相互理解の下で
常になされるべきです 彼らはあなたの赦しを
勝ち取る必要はありません 彼らは赦されているのです あなたが赦されているように 皆さん
聞いてくれていますか? 今自分が赦されているという真理に
依り頼んでいる人の特徴を 第2ペテロで見ていきましょう “だからこそ
あなたがたはあらゆる熱意を傾けて” “信仰には徳を
徳には知識を” “知識には自制を
自制には忍耐を” “忍耐には敬虔を” これら全てが欲しいという人は
いますか? これら全てはクリスチャンが求めるべき
素晴らしい特性ですね 独身の女性で 「これらの特性を多く兼ね備えた男性と
結婚してもいいよ」という人はいますか? 「えーやだーテレビに出ているあの人みたいな
見た目じゃなきゃやだー」 僕の言うことを信頼してください 10年も経てばこれらの特性が
どれだけ重要かがわかりますから 初めは
あまり魅力に感じなかったのに だんだんと夢中にさせてくれる
という人がいますね 一方最初は超魅力的なのに
少しずつ本質があらわになっていって 魅力が全然なくなる
という人もいます その本質ゆえに
魅力をどんどん増していく人の魅力は 一時的ではありません ここに書かれている特性は
永遠のものですが 見た目はそうではありません マーク牧師を見ればわかるでしょ マーク牧師の見た目は
どんどん改善してるってことですよ 栄光から栄光へと改善してます どういう意味だと思ったの? みんなひどいなぁ 取り違えないでくださいよ ここに書かれている 自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛
といった特性は どれも
自分の人格に備えたいものですね そしてだからこそ多くの牧師が これらの特性を持ちなさい
というメッセージを語っています もちろんこれらの特性が
私たちの人生に現れることで キリストに栄光が帰るのは
確かです さらに次の節には
こうあります “これらがあなたがたに備わり
ますます豊かになるなら” “私たちの主
イエス・キリストを知る点で” “あなたがたが役に立たない者とか
実を結ばない者になることはありません” イエスを知る点で
実を結ばない者にならないことこそ 私たちが求めることですね でも次の節を見てください “これらを備えていない人は
盲目です” 自分の以前の罪がきよめられたことを
忘れてしまって 近視眼的になっているのです これはまるで神が私たちの胸に
霊的な聴診器を当てて得た 診断結果のようです 今例えばのシナリオを
想像してみてください でもこれはパウロが言ったように あなたがたの肉の弱さのための あえての人間的な言い方である
ということを理解しておいてください あなたは病院に来た そしてお医者さんが
あなたの胸に聴診器を当てたり 様々な質問をする それはあなたに何が欠けているのかを
突き止めるためです あなたには
眠る能力が欠けているのか あなたは元気でいる能力が
欠けているのか または他の何かが欠けているのか そこであなたはお医者さんである神に
こう言う 「神様、私には
兄弟愛が欠けているんです」 「愛が欠けているんです」 「〜が欠けているんです」 そのあなたの胸に
神が霊的な聴診器を当ててこう言う 「ああ、君の問題はこれだよ」 「君は忘れてしまったんだ」 「え、何をですか」 「君は自分が赦されたことを
忘れてしまったんだ」 「君は自分の以前の罪がきよめられたことを
忘れてしまったんだ」 ここで以前の罪と言っているのは 最初の契約が「以前のもの」となったのと
同様です それはもう
以前のものとされているのです それは新約の時代に生きる私たちに
罪がないということではなく 全ての罪がもう対処されたから
それを「以前のもの」と呼んでいるのです 「でも君は自分が赦されたことを
忘れてしまった」 それが神の診断です でもあなたが「自分が赦された」
という真理に依り頼んでいるならば 道徳的な素晴らしさ、兄弟愛
敬虔、自制、愛といったものが あなたから自然にあふれ出てきます これらの特性に欠けている人たちは 自分が赦されたという真理に
依り頼めていないのです 自分が赦されたという真理に
依り頼めていないと 自分の赦しを得るための行いで
あくせくとすることになります 周りの人に厳しい人というのは
大抵まず自分に厳しい人です 知っていましたか? そうですよ すぐ人にイラッとしてしまう人
というのは まず自分に
すぐイラッとしてしまう人です 自分にもこういう基準を
課しているので 他の皆にも
その基準に反してほしくない でも元をたどれば 神は彼らに
そんな基準を与えてはいないのです アーメン
ここまでよろしいでしょうか? ここに自分が赦されているということを
確信する重要性が書かれています 王がいなかった時代の終わりである
旧約聖書の士師記の頃でも イスラエル王国の終わりの時代でも イエスが王として戻ってきて 新しい王国が始まることを待ち望む
教会の時代の終わりでも 彼らは共通して盲目に陥りました そこから得られる解釈があります それはレビ記に “あなたは古いものゆえに
新しいものを運び出す”と書いてある通りです 古いものを見ると王国が生まれる前の
士師記の時代には サムソンという士師がいました 彼はどうなりましたか? 目がつぶされて
見えなくなりましたね 次にイスラエルの王国が終わる時を
見てみましょう その時イスラエルは
罪の上に罪を重ね続けていました 神はそれに対して
警告を与え続けていましたが イスラエルは
罪を犯すことをやめませんでした そこでバビロンのネブカデネザル王が
バビロンを滅ぼしますが その時の最後の王は
ゼデキヤでした 彼はどうなりましたか?
同じです 目が取られて
見えなくなったのです 彼は目を取られる前に 自分の目の前で
2人の息子を殺されました 彼はそれを最後に見て
見えなくなったのです そこから早送りして
終わりの時に進んでみると それが私たちが生きている時代です 黙示録に書かれている 7番目の教会は
ラオディキアの教会です それは裕福になり
高慢になってしまい 自分たちに足りないものは
何もないから イエスも何も必要ない
というようになってしまった教会です アーメン そしてその高慢になってしまった
教会に対して イエスはこう言います 「あなたは自分が盲目であることが
分かっていない」 これが黙示録に記された
7つ目の教会でした 今の私たちは6番目か7番目の教会の
どちらかにいます 私たちはイエスの名前を固く握りしめる
フィラデルフィアの教会のようであるのか ラオディキアの教会の
ようであるかです 1世紀の教会と比べるならば どの教会もラオディキアの教会と
言えるほどに裕福です だけど問題は
裕福であることではありません 神が彼らの心からいなくなり イエスが教会の中心に置かれていないことが
問題です では盲目になるとか近視眼的になるとは
どういうことでしょうか 近視とはこういう感じですね 「そこにいるのはタケシかい?」 近視とはこのように近くは見えるけど
遠くは見えないという状態です つまり
近視眼的になっているとは 預言的になれていない
ということです ワシはどんな鳥よりも遠くまでを
見ることができると言われています しかもワシの目は熱画像さえも
捉えることができて それによって隠れている自分の獲物を
見つけ出すことができます しかも
ワシの視野はほぼ360度です つまり背後さえも
視野に入っているのです きっと340度ぐらいでしょうか 神はそのずば抜けた視野と視力を
持っているワシに 神の子どもであるあなたを
なぞられています あなたは遠くまでを見る者
なのです 今年1年のビジョンを得るためには 遠くまでを見れている
必要があります 預言的なメッセージを
受け取ることができる人たちは皆 将来を覗き見ることができる
人たちなのです でももしあなたが
罪ばかり意識していたら 遠くを見ることなどできません むしろ完全に
盲目になってしまいかねません なぜパリサイ人は盲目だったのでしょう? なぜだと思いますか? 彼らは罪がそんな風に赦されるとは
信じていないからです イエスが”「あなたの罪は赦された」”
と言った時 彼らは「赦せるのは神だけだ」
と思いました その通りです 「この方は神ってことなんだよ」 最後に
この質問をさせてください 皆さんに考えてもらいたいんです イエスがこの地上で歩んだ時 イエスにいつもイチャモンをつけてきた
2つの宗教的なグループは 何というグループでしたか? これは超重要問題ですよ 今ちゃんと
顔を上げてくれていて この質問に答えられた人には
100点満点を与えたいと思います 準備はいいですか? その2つの宗教的なグループは パリサイ人と sad-to-see
サドカイ派の人たちです sad-to-see
「見るのが悲しい」人たち 彼らが「見るのが悲しい人たち」
であるのには理由があります でもそれを言うならば パリサイ人もサドカイ派の人たちも
「見るのが悲しい」人たちでした では彼らそれぞれは
何を信じていたでしょう? パリサイ人たちは決まりにとても厳しい
律法主義でした 彼らは義の賜物という真理に対して
盲目となっていたのです 彼らは神の義を知らず 賜物であるその神の義に
自分を従えず 自分自身の義を確立させようと
躍起になっている人たちです 彼らは自分自身の義を確立するのに
いっぱいいっぱいだったので… 今ちょっと
ステージから落ちかけました いつか私が
ステージから2歩踏み出して落っこちずに またステージに戻っても
驚かないでください 神の守りにはそれも可能です なんで笑ってんの? 空中を2、3歩歩くどころか 霊だけでなく 体が空中に浮いて
天上に上げられていくという 携挙の日がいつか訪れるんですよ アーメン?
ハレルヤ とにかくパリサイ人たちは 神の義が賜物として与えられる
ということを受け付けませんでした そして自分自身の義を確立させようと
躍起になっていたのです そうなるように働きかけていたのは
誰ですか? 悪魔です そしてもう一つのグループが
サドカイ派です 彼らは何を信じていましたか?
分かる人はいますか? 何がない? 復活がない 彼らは復活がないと信じていました サドカイ派の人たちの
まず第一の特徴は 「復活はない」と信じていることでした 彼らはそれを理由に
パリサイ人たちと口論になったりもしました パリサイ人は復活は信じるけど 義が贈り物として与えられる
ということは信じていませんでした そしてサドカイ派は
復活はないと信じていた そうなるように働きかけていたのは
誰ですか? 悪魔が
この両方のグループに働きかけて イエスを攻撃するように
働きかけていたのです それを知ることによって
あなたは この三日目という時代に 私たちが信じるべき 最も重要な教義が分かります それは神の義と復活です アーメン?ハレルヤ 皆さん
あなたの罪は赦されました あなたの罪は赦されたのです 「プリンス牧師
そんな風に言うと」 「人々は『ヒャッホー罪を犯しちゃえ』
となりますよ?」 私は若者に
こう言われたことがあります 「ってことは
罪を犯しちゃっていいってこと?」 確かに論理的に考えると
そうなりますよね そうです あなたには
罪を犯す自由があります そして赦されてもいます でも彼があなたを愛していて
赦してくれたということを知った後でも 罪を犯したいですか? それでも
本当に罪を犯したいですか? その答えは明らかですよね イエスは例え話である
王の話をしました その王はあるしもべの
10億円の借金を帳消しにしました するとそのしもべは
自分に借金のある人を見つけて その支払いを要求しました そのしもべは
王に10億円の借金がありました でもそれを支払うことができないので
彼は王に支払いの猶予を求めました すると王は彼を憐れんで
猶予を与えるどころか その借金を
帳消しにしてくれたのです そのように神は
私たちの罪を帳消しにしてくれました でもその彼は自分に
10万円の借金がある人を見つけて その支払いを要求したのです 10億円赦されたのに
10万円を赦さなかったのです 彼は自分に借金がある人の胸ぐらを掴んで
こう言いました 「借金を返せ」 するとその人は彼が王に言ったのと
同じことを言いました 「どうか時間の猶予をください
そうしたら払います」 すると彼はその人を
牢に入れてしまいました 王はその話を聞くと
彼を呼んでこう言いました 「わたしは
君の全てを赦したじゃないか」 「君はその人を赦せなかったのか?」 あなたは自分が赦されていながら 他の人を赦したくないということも
できてしまいます でもそれは自分が赦されていない という真理に
依り頼んでいないからです 彼は王の赦しを
真に受けていなかったのです いつか払わされると思っていたから まずは最低でも10万円の借金を
返してもらっておこうとしたのです 自分の罪の償いをしようとすることは
プライドです そしてジョセフ・プリンス
もう終わりの時間だよ 終わりにしないと
皆帰っちゃうぞ、ハレルヤ ハレルヤ
これが福音です アーメン
あなたは赦されている その真理に依り頼んでください 悪い思いが浮かんでしまったら 自分が赦されているという
真理に依り頼んで 悪い感情を抱いてしまったら 自分が赦されているという
真理に依り頼んで 今は三日目です その中に100%浸って
歩みましょう キリストは復活しました あなたの信仰は
不毛なものではなく あなたはもう
あなたの罪の中にはいません アーメン それでは皆さん目を閉じて
頭を垂れてください 今イエスを自分の救い主と主として
信じて受け入れたいならば 私に続いて
この祈りを心から祈ってください 神は生きていて
この場所にいます だから救われるのに
多大なプロセスは必要ないのです 心から祈って イエスを
自分の救い主と主として宣言するなら イエスが十字架上で
あなたのために成したすべてのことは あなたのものとなります そしてあなたは
罪の赦しを受け取ります もしあなたが今
それを求めているならば 一緒に祈りましょう 「天のお父さんありがとう」 「キリストは
私の罪のために死んでくれました」 「そして彼は私が義とされるために
死から復活させられました」 「イエス・キリストは永遠に
私の主であり救い主です」 「天のお父さんありがとう」 「私のすべての罪は」 「すべての罪は
小さいものから大きいものまで」 「自分で
自分を赦せないようなものさえ」 「キリストの血を通して
全て赦されました」 「天のお父さんありがとう」 イエスの名によって
アーメン あなたは救われました これだけです あなたは救われました では皆さん
立ち上がってください そして神に向かって
手を挙げましょう アーメン これからの一週間 自分が赦されているということを
覚え続けてください 必ずどこかで特に思考の分野で
過ちを犯してしまうでしょう でもそれが起こったら ただ一言「私はキリストの血によって
赦されている」と言ってください アーメン その後でももちろん
あなたには罪を犯せる自由があります でもそうしたいですか? それとも彼のために生きたいですか? あなたは神の性質を持つ者として
新しく生まれたのだから 彼のために生きたいに
決まっています だから彼の栄光のために
生きましょう アーメン 神が皆さん一人一人を
イエスの名によって 豊かに祝福しますように それでは皆さんご一緒に
アーメン 神の祝福がありますように それではまた

十字架と復活は、私たちの信仰の核であり、クリスチャンとして歩む上で欠かせない真理です。特に、「三日目」と呼ばれる神様の預言的な今を生きる私たちにとって重要なことです。この啓示的なメッセージを通して、復活の本当の意味の理解を深めましょう。イエスの復活を信じることが、勝利ある人生、実り、神様の好意を受け取る鍵なのです。復活は赦しの証であるだけでなく、今日を豊かに生きる希望でもあります。この真理を受け取り、神様の祝福に満ちた人生へと踏み出しましょう!

エピソードについて:
2025年2月16日のジョセフプリンス牧師の「赦されているという事実に頼って生きる」のメッセージです。

00:00 01 自分の知識ではなく、主に頼る
08:01 02 神様の復活の力の新たな啓示を受け取ろう!
17:01 03 これが天のお父さんがあなたに願うこと!
22:28 04 贖いの業は本当に完了した!
35:01 05 なぜ「完全な赦し」を知る必要があるのか
44:04 06 すべての罪はすでに対処された
47:46 07 キリストの赦しをすぐに受け取れるようになろう!
49:45 08 赦しを信じると人生が変わる!
58:24 09 今日、信じるべき大切な教え
01:03:33 10 救いと祝福の祈り


ぜひ証や記事、他のリソースを楽しんで下さい!
ウェブサイトはこちらから: https://www.newcreationtv.org/jp

このメッセージを聞いてあなたの人生の中で、イエスが行ったブレイクスルーをお聞かせください。こちらのオンラインフォームからお送りください。
https://bit.ly/nctv-japan-testimony

お祈りのリクエストがあればこちらのオンラインフォームからお送りください。
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その他のお問い合わせはこちらのオンラインフォームにお問い合わせください。
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この動画の内容は、専門的な医学アドバイスと比較して優位とされるものではありません。もし愛する人が健康上の問題を抱えていたり、身体疾患を患っているとしたら、医師免許保持者や医療提供者に相談してください。また動画の内容は、薬の服用や治療の中断を促したり、それを許容するものではなく、そのような解釈をすることは一切お控えください。私たちはいかなる保証もせず、結果は個人により異なることを理解する一方、皆さんが健康面や医学的問題に関して神の知恵と導きを常に祈り求めるよう励まします。私たちは今後も信仰に立ち、神のみことばと信じるすべての人に与えられた癒しの約束を信じ、それを主張します。

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